2017年 06月 18日
忘らるる潮来節なりあやめ咲く
潮来という土地には思い出がいっぱい!
それでも今回はある目的があり、漸く「そうだったの~」となりました
端唄:潮来出島
潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや 花はいろいろ五色に咲けど 主に見かえる花はない 長唄「藤娘」舞踊曲にもこの唄の件が入っていますね。 先ず向かったのは潮来市役所。とても対応が良かったです。 「私の母の旧姓は窪谷(くぼのや)と申しまして、伯母家族は潮来三丁目に住んでたんですよ」 「そうですか、私の家は四丁目ですよ。窪谷さんは名家ですよ」と。 「それでしたら参考までに潮来の図書館で大久保先生の本をご覧になると良いかも・・・」と。 早速、牛堀の図書館へ。此処はかって数回利用していた処。 フムフム、、、へえ~、、、。潮来は水戸藩の南領であったという。江戸時代の潮来村は一丁目から八丁目に区画され、水戸藩主・徳川頼房以来、宮本姓(私とは無関係よ)、窪谷姓(ここにありました!・・・後で兄に確かめると、母の出は分家だったそうな)、関戸姓、石田姓の8軒が代々潮来村の年寄に命じられていたという。俗に「八人頭」と呼ばれていたそうです。とにかく佐原の水運が栄える以前は此処、潮来が江戸への物資輸送の集散地、中継地として大いに栄え、その上、香取、鹿島、息栖神社への参詣をする行楽客の足だまり、そして遊興の巷として全国的に知れ渡ったようです。 「俚謡(りよう)」という言葉、里唄と同じかもね?!民謡よりももっと素朴で鄙びた、古くからその土地で歌い伝えられたものを云い、潮来節は船の乗客を相手に唄われ、囃子言葉がついたりして、1762年~72年にこの歌が江戸に入り、やがて全国に伝播! 京都の祇園はじめ上方で流行り、やがて越中越後など、全国津々浦々に伝えられたと。あの「よしこの節」(阿波踊りと同系)、佐渡おけさ、諸国の盆踊り、都々逸などなどへ派生したと。だから潮来節ってすごい文化遺産なんだよね!!!今では影も薄い存在、、、七七七五調・・・成る程ね!! 昔はこんな眺めだったりして・・・。さすれば「潮来出島の真菰の中にあやめ咲くとはしほらしや」も頷ける・・・。観光地の賑やかさ、派手さとは所詮違うよね!!
思案橋~~情緒ある名前だけど今はこんな感じ・・・。♪♪潮来出島の十二の橋を行きつ戻りつ思案橋 そういえば短大のたった2年間のアパート暮らし、決め手はすぐ近くにあった橋の名が好きで、高田馬場からの都電の下車名も「面影橋」 一ヶ月の家賃が4000円。昭和37年にはもう佐原に逆戻り。 余談でした・・・。民謡とは本来、人に聞かせるものでなく人々が共同の労働や生産に従事する時に唄われたもの。これが遊郭に入り、酒席のお座敷唄として娯楽化し、踊り唄となったのではなかろうか~~この先生はこう結んでいます。 睡蓮もちらほらと。 なんか遠慮がち・・・菖蒲か睡蓮か、どちらが好きって聞かれたら、私はハスや睡蓮が好みなんだけど
それでも今回はある目的があり、漸く「そうだったの~」となりました
端唄:潮来出島
潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや 花はいろいろ五色に咲けど 主に見かえる花はない 長唄「藤娘」舞踊曲にもこの唄の件が入っていますね。
思案橋~~情緒ある名前だけど今はこんな感じ・・・。♪♪潮来出島の十二の橋を行きつ戻りつ思案橋 そういえば短大のたった2年間のアパート暮らし、決め手はすぐ近くにあった橋の名が好きで、高田馬場からの都電の下車名も「面影橋」 一ヶ月の家賃が4000円。昭和37年にはもう佐原に逆戻り。 余談でした・・・。
by choropikotantan
| 2017-06-18 16:01